いっそ宝箱

日々のあれこれや何かの感想、考察という名の妄想など

友達と友達の彼氏と私

もしくは
友達と友達の旦那と私

という構図に時折なる。

10代の頃はそういうのも苦手だったが、この年になると割とそういうのが嫌いではないなぁと思えるようになった。
二人には二人の時間があるので私は一人になる時間をもらえるし、幸せそうな人たちを見ているとホッとする。

二人がイチャイチャし始めたときは「いや一日くらい我慢せぇや」と思うし友達には言ってしまうけど。でもあのイチャイチャもたぶんこちらに見せつけてるわけではなくて、それが彼ら彼女らの日常になっているから出るだけなのだろう。私はそういった日常を送ったことがないから共感できないだけで。

二人のイチャイチャを止めたとき、彼氏も遊びについていくと言い出したとき、彼氏の肩を持つ子はあまり好きじゃない。「彼氏もついてきちゃってごめんね」と一言いってもらえるだけで、すごく救われた気持ちになる。(彼氏だけ置いていったら可哀想じゃん!と言ってくる子には、じゃあ私抜きで遊んでくれよと思う)

人にはそれぞれ役割があって、目の前で彼氏彼女、または夫婦という役割を見せつけられているとき、私は恐らく「当て馬」という役割をもらっている。
私がいることでいい比較対照になるのか、他人に見られることで興奮するのか。彼女にベタベタする人が増えるのは、そういうことではないかと思う。


でも私は幸せな家庭では育ってこなかったので、仲のいい夫婦というのは素敵だなと思う。
そこに確かに存在する世界。そしてそこに私はいない。透明人間になれる。そういうとき私はなぜか楽になる。
そうだ、そういう疎外感を感じたとき、私はよく逃げ出す子どもだった。逃げ出す子どもだったのに、それが楽になっている。たぶん期待されなくて済むからだと思う。

たくさんの自然のなかで死んで土に戻れたら幸せだ。土葬とかじゃなくて。自分で死を選びたい。鬱のときはよく原っぱで死にたいと思っていた。でも原っぱは遮るものがなにもなくてただただだだっ広くて、こんな何もないところでは死ねないと諦めた。
森のなかで穏やかに死にたい。殺されたり自然災害だったり病気とかじゃなくて。みんなそう思うだろうけど。本当に。勝手に人生スタートさせられたんだからゴールくらい自分で決めさせてほしいよね。